令和2~5年にかけて敦賀市の広報誌『広報つるが』で連載していた
「まちの宝を発見!つるが歴史遺産」の記事を当館HPブログで毎月1本紹介します。

 大原山西福寺は県下でも有数の文化財の宝庫です。令和5年度より覆屋を掛け、長期にわたる大修復工事に入る大殿(御影堂)をはじめとする伽藍建物、極楽浄土を顕した名勝庭園だけでなく、仏画、経典、珍しい所では医学書の版木などが国、県、市の指定になっており、未指定の中にも貴重な文化財が残されています。中でも県指定となっている西福寺文書は貴重な中世文書を中心に膨大な版本類など千件以上の一大古文書群です。

 古文書は歴史を調べる上で最も重要な情報源です。西福寺文書には西福寺に寄進された寺領に関するもの、越前や敦賀を治めた領主層とのやり取り、宗派や本山・末寺に関わるものなど様々なものが含まれています。

 それらは掛軸に仕立てられたり、巻物や冊子にまとめられたりして現在に伝えられています。掛軸は朝廷からの文書や、領主からの安堵状や禁制(支配者層による安全等の保証)が多く、寺格を示すために掲示することを意識したものでしょう。越前の歴代の守護職や朝倉義景、織田信長、大谷吉継の禁制などがあります。

 寺領に関する文書や書状などは、もともとは一紙の状態で伝えられていたのでしょうが、近代に入って大まかな種類別に冊子や巻物にまとめられました。中でも巻物には重要な文書がびっしり連ねられて表装されていて、これが実は博物館泣かせです。

 敦賀市立博物館では毎年西福寺文書の中から数点を選び、紹介する展示を行っています(令和5年度は5月9日から7月20日)。このテーマに合わせてこの文書とこの文書を並べて展示したい、と思っても長い巻物の最初と最後に貼り込んであってはかないませんし、異なるテーマの下、別のケースに入れて紹介したいのに同じ巻物で隣り合わせになっていることもあり得ます。

こうした表装は文書の劣化や散逸を防ぐことを意図して行われるもので、そうした努力を経て西福寺文書は現代に伝えられました。実際、こうして掛軸にも巻物にもなっていなかった最古の文書が寺外に流失し、奇跡的に戻ってきています。これについてはいつか詳しくお話しすることもあるでしょう。

 文化財保護はいつの時代もその時最も適切と思われる手当が行われます。現代では後の時代にさらに進んだ技術で修復ができるように元に戻せる形で修復することが望ましいとされますが、そうでなくともその時の最善の努力が尽くされてきたのです。西福寺の数々の文化財が長い年月守られてきたように、この先も、その時代の最善の知恵を集めて守り継いで行きたいものです。 (令和5年6月加筆修正)

福井県指定文化財 西福寺文書
所蔵:西福寺