敦賀市立博物館は最初、1978年(昭和53)に「敦賀市立歴史民俗資料館」として開館しました。1993年(平成5)の博物館登録を機に「敦賀市立博物館」と改称しました。そして、2012年(平成24)~2015年(平成27)の修復工事を経て現在に至ります。

 当館では、敦賀市内に発掘された考古遺物のほか、中世・近世・近代の文書資料、民俗資料、そして近世・近代の美術資料まで、敦賀ゆかりの資料を数多く収集・保存しています。

みなとまち敦賀と博物館

 古代から天然の良港として栄えた敦賀には、多くの魅力あふれる歴史が残されています。古代では、渤海使を迎えた松原客館や古代三関の愛発関の名が伝わっています。近世に入ると、敦賀城主の大谷吉継が町を整備し繁栄期を迎えました。江戸後期には北国と畿内とを結ぶ北前船で賑わいます。また、「奥の細道」の旅で松尾芭蕉が訪れた地としても有名です。幕末期には、水戸天狗党の悲劇の舞台となりました。近代になると、敦賀は日本海側でいち早く鉄道が開通し、外国との連絡船が行き交う国際港として隆盛します。20世紀には、ポーランド孤児やユダヤ難民を迎え入れた「人道の港」として敦賀港の重要性が語られます。

 このように、交通の要衝として多様な歴史を持つ一方、それ故に戦乱の舞台にもなりました。戦国時代では、「金ヶ崎の退き口」でも有名な金ヶ崎城跡があるほか、近代では1898年(明治31)に移駐してきた敦賀連隊の跡が残されています。また、第二次世界大戦下では、敦賀は日本海側で最初の空襲被害を受けた地で、3度にわたる空襲により壊滅的な打撃を受けました。これらも決して忘れてはならない歴史のひとつです。

 敦賀市立博物館は、資料の調査研究を通し、市民をはじめ多くの人々に郷土の歴史を伝え広める活動を行ってまいります。

大和田銀行と博物館

 当館の建物は国の重要文化財である「旧大和田銀行本店本館」を活用しています。銀行創設者である大和田荘七の「市民に親しまれる銀行建物に」という思いを受け継ぎつつ、博物館としての活動にも尽力していきます。

引札 田中組 千石船
西伯利経由欧亜交通路略図
橋本長兵衛「架鷹図」
菊池容斎「関ヶ原合戦図屏風」