先人の運河計画に思いを馳せる川の流れ

 敦賀湾は古代より日本海沿岸、さらには大陸と繋がっており、各国の物資が敦賀へもたらされました。疋田地域は、それらの物資を琵琶湖経由で京都まで運ぶための要所でした。江戸時代に入ると北前船で運ばれる大量の物資をより効率よく京都へ運ぶため、敦賀・琵琶湖間に運河開削を目指す機運が高まりました。

 計画が実現したのは文化13年、現在の舟川の原型ができあがり、敦賀の町から疋田までは舟で、疋田からは牛車で深坂峠を越えて琵琶湖へ荷物が運搬されるようになりました。その後一旦は廃止されましたが、幕末には日本近海に外国船が現れた結果、下関、瀬戸内海航路以外の京都への物資輸送路確保のため、改めて1855年に整備、運送が再開されました。

 最終的に舟川は慶応2年(1866年)に廃止されました。敦賀・琵琶湖間の運河開削はその後も計画されましたが、実現することはありませんでした。しかし日本海と琵琶湖をつなぐ輸送路は、明治14年(1881年)の長浜―敦賀の鉄道開通として別の形で結実したとも言えます。疋田舟川は幻の運河計画の一部が実現した形とも言えるかもしれません。日本海と畿内をつないだ時代を伝え、今も昔も変わらずに流れています。

荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(平成29年4月認定)構成文化財