知られざる天狗党にまつわるエピソード

 元治元年(1864年)12月11日、新保に陣を構えた水戸の尊王攘夷過激派・天狗党と、その討伐軍との交渉が加賀藩の仲介のもと始ります。真冬の気候に加え、村人が逃げ去った山間の村では食糧調達も厳しく、包囲網も狭まるなか、時が経つほど天狗党側が不利になり、何より対峙する相手が頼みとしていた一橋(徳川)慶喜と知り、18日、天狗党は武装解除し降伏する道を選びました。
 さてこの交渉中、一橋慶喜側の陣営で、慶喜の手足となって働いていたのが今話題の渋沢栄一のいとこ・渋沢成一郎(喜作)です。成一郎は慶喜の使いで福井に行った帰り、天狗党がいる木ノ芽峠を通ることが出来ず、海側の東浦から敦賀に入ろうとしたところ、警備をしていた小浜藩に天狗党と間違えられ捕らえられてしまいます。幸いにも敦賀に顔見知りの藩士がおり誤解は解けました。成一郎が捕まった12月11日は天狗党が新保に到着したばかりで、明日にも戦争勃発かという時期。「白刃」(抜き身)を持つ殺気立った武士たちに囲まれての敦賀入りでした。成一郎はこの後彰義隊頭取となり、旧幕府軍として函館で戦い、維新後は渋沢栄一とともに近代経済の発展に尽くしたなかなか豪胆な人物ですが、ここでは「最早死すへく候」(死ぬかと思った)と感想を述べています。
 同じ尊王攘夷の志を持ちながら、明治維新の礎となった天狗党と、新しい時代を切り拓いた渋沢たち。天狗党事件をきっかけに多くの人々の人生が、ここ敦賀で交錯していたのです。

水戸烈士記念館(天狗党が監禁された旧鰊蔵)※現在移築工事中につき見学できません。
種 別:有形文化財(建造物)【令和2年指定】
所在地:松原町