当市が発行している『広報つるが』に掲載された文化財関係の原稿(2020年8月号)が、紙面の都合上、半分以上肝心なところを削られた(よくあることなのであまり気にはしていません)ので、こちらのブログで掲載することにしました。記事のタイトルは「洲崎の髙燈籠」です。
江戸時代、敦賀湊への入船は、寛文期(1661~)に2,600艘前後を誇りましたが、西廻り航路の影響で明和期(1764~)には500艘に激減しました。この打撃を緩和したのが松前貿易と茶の輸出であったと、昔の本に書かれています。
「北国は寒き故茶なし」(貝原益軒『諸州巡覧記』より)と、敦賀から以北の国々に茶を輸出した商売は、元々「今橋々爪」であった町の名が、茶問屋が多くなったため「茶町」と変化して呼ばれるまでに大繁盛しました。やがて北国でも茶の栽培が行われるようになり、近世後期には茶町は衰退し、残るは町名だけとなります。一方、松前貿易はニシンや昆布などの輸入と、敦賀産の釘や、紙、石灰、縄筵などの輸出が明治期、鉄道が開通するまで続きます。この多くの所謂「松前物」を運んだ「北海を往かよふ船(北前船)」(『敦賀志』より)が目印としたのが、「茶町」(現在の敦賀市川崎町)の一角、「洲崎」とも呼ばれた場所に建てられた髙燈籠でした。
「宇治めきて茶町にかかる今はしを/渡る夕日の影はおちかた」と、嘉永期に敦賀商人が発行した旅行案内書『千嶋講宿帳』(敦博データベース4073)に、髙燈籠と思われる図と共に掲載された和歌を、茶の本場宇治のような茶町にかかる今橋に、落ちる寸前の夕日の影が渡っていくという意味であると解釈すれば、これは夕暮れの寂しさと、茶町の盛衰をかけている歌と考えられます。
つい最近、現在のように整備された道が出来るまで、海辺の集落の人々が敦賀の町に行く時は漁船に便乗するのが常でした。湾内では髙燈籠を目印に川を上り魚市場で上陸したと言います。茶町の衰退と、松前物の盛況と、洲崎の髙燈籠は江戸時代から現在まで湊の原風景を今に伝えています。
(Y.B.)