当館では、郷土ゆかりの絵師として、幸野楳嶺の作品を積極的に収集してきました。

今年2025年は楳嶺没後130年にあたり、当館ではこれを記念して「蔵出し!幸野楳嶺」と題した館蔵品展を開催中です。(7月13日まで)

☟展示についてはこちら

幸野楳嶺といえば、近代京都画壇の礎を築いた重要人物であり、竹内栖鳳や上村松園の師として広く知られています。

楳嶺は京の画家。敦賀とどんな関係があるのか?ご存じない方が多いかもしれません。

たしかに楳嶺は生まれも育ちも京都ですが、父の四郎兵衛は敦賀の生まれでして、幸野家のルーツは実は敦賀にあるのです。

「蔵出し!幸野楳嶺」展にあわせて作成したパンフレット(『幸野楳嶺作品集』)でも掲載していますが、楳嶺と敦賀の関係について、ここでも簡単にご紹介したいと思います。

☟下記リンクからパンフレットのPDFをご覧いただけます。

幸野家は、敦賀で代々馬借頭(馬で荷物を運送する集団のお頭)を務めた家でした。

敦賀の茶町(現在の川崎町)に幸野家はあったそうです。下の画像は茶町周辺が描かれた江戸時代の敦賀の図です。

茶町に建てられた、日本海側最古の石積み灯台「洲崎の高燈籠」(享和2年)は今も残っています。みなとまち敦賀の歴史を感じますね。

「今橋夕照」(「敦賀風景八ツ乃詠」のうち) 江戸時代後期 当館蔵
現在の川崎町(今橋より望む)
洲崎の高燈籠 享和2年(1802)

後に四郎兵衛は京都の両替商安田家の養子となり、安田姓となります。しかし、敦賀の幸野家が絶家となったため、息子の楳嶺に「幸野」の名を継がせました。四郎兵衛の中に、ルーツを絶やしたくないという思いがあったのでしょうか。

楳嶺は、安政6年(1859)4月に父親と敦賀を訪れています。楳嶺は当時16歳(数え年)でした。

敦賀の名勝を巡ったようで、その時に見た景色をスケッチした画帖が現存しています(海の見える杜美術館蔵)。下の画像は、当時楳嶺の見た景色に近い、明治~大正期の敦賀の風景写真です(掲載の古写真は全て当館蔵)。

楳嶺の敦賀旅については、先述のパンフレットでスケッチ画像とともに紹介していますのでぜひご覧ください。

弁天岩
常宮神社
龍燈ノ松
氣比神宮

旅を終え、父四郎兵衛は同年(安政6年)9月に死去します。最後に息子と幸野家のふるさとを旅できたことは、四郎兵衛にとって喜びだったのではないかなぁと勝手ながら想像しています。

では、楳嶺にとって「幸野」の名はどういうものだったのでしょう。当館の所蔵品で一つご紹介したい作品があります。

「幸野楳嶺自画像」明治26年(1893) 当館蔵

一見、ただの落書きか…と思ってしまいますが、作品に付随する情報が興味深いのです。

この作品を保管している箱の蓋裏に、多田紅鵞なる人物が作品の経緯を記しています。

正月に行われた酒宴の最中に、楳嶺のヒゲが長いのに面白くなったのか、多田がそれを描き写していたそうです。するとそこに楳嶺が自ら自画像と歌を加えてくれたとのこと。お酒の席ならではの楽しいエピソードです。

おふざけで描かれた自画像ですが、ここでは表具に注目していただきたいです。

「幸野楳嶺自画像」全体写真
表具部分
「幸野楳嶺自画像」部分

「丸に幸」のマークが散らしてあります。よく見れば、絵の中の楳嶺が着ている羽織にも同じマークがあります。

これについては、竹内栖鳳(楳嶺の弟子)の息子・逸の記述があります。

「外出の時は必ず黒の紋羽織で、紋は定紋の横木瓜を廃して、幸の字を図案化した(〇幸)であった。」 (竹内逸「楳嶺先生を想ふ」『楳嶺遺墨』1940)

つまり、これは楳嶺が幸野の「幸」を図案化したオリジナル紋なのだそう。

楳嶺のお洒落な遊び心が感じられる一方で、父から受け継いだ「幸野」の名を大切にしていたことが感じられます。

楳嶺は生まれも育ちも京都の人ですが、敦賀・幸野家のファミリーヒストリーをしっかりと受け継いでいたんですね。

まさに郷土が誇るべきゆかりの人物!と言えるでしょう。

(A.K)